考察:愛について_その2

 自分の脇の香りを嗅ぐと、死んだ母を思い出します。消化器系というか、体臭が似ているのでしょう。こういったことで母との共通点を見つけたりするとくすぐったい気持ちになるものです。私はやはり、母の子なのだと感じるばかりです。
 西向く侍です。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
 西向く侍は元気に過ごしています。人としゃべることがなくなれば、人間はいつか死ぬのかもしれないと思うようになりました。
 それを超えたときに人は、新たな新人として歩めるのかもしれません。
 孤独を寄り添う必要がなくなった時にはおそらく人はつがいになるのをやめるでしょう。

 さて、愛についての考察の続きです。

 前回の記事においては、西向くが考える『真理球体説』について触りを触れました。結構簡単な思考方法であると考えます。みなさん、この理論使っていいですからね。

 視座によって、真理の見え方(真理という球体の表面)は違う上に、球体であるためになだらかな曲線を描くため、正中にない事象については歪んだ見方しかできないのです。

 ここで、『愛』を考察するうえではこの視座というのは大変重要な役目があります。

『愛』に理屈をつけたいと思います。

 今回は地球人口の推移から『愛』に近づこうかと考えます。

 かつて、人の祖先は『愛』を大事にしました。それは生きる上での必須条件だったからです。厳しい自然と十分とは言えない食料を分けるために、寄り添いあい、生きるためには『愛』が必要でした。
 食料を蓄えることにより、地球規模においては人口は爆発的に増えました。

 1万年前、地球の人口は100万人と言われています。
 5千500年前に文明が発生し2000年経った時点での人口がは1億人です。
 そして、2016年現在73億人です。

 その差は膨大な数です。

 現在言われている『愛』という形は私たちの祖先が野を駆け回っているときから変わらぬものです。
 人が増えました。革新的な技術が発見されました。人類はさらなる発展を遂げました。
 加速しています。人の生きる速度、感じる速度、技術は加速し続けています。
 私たちは明日を生きることを歯を食いしばっていたというのに、今は老後の心配をするという時代です。
 生きるスピードが加速しているにも関わらず、なぜ『愛』の形が変わらずにあれると考えるのでしょうか。
 物質的に満たされ始めた社会が構成されつつあるのです。従来の『愛』がどうして通じるのでしょうか。
 そこで、西向くは考えました。
『愛』の認識について、現代はゆっくりと、進化の途上にあるのだと思います。
 かつて、生きる上で『愛』は必須でした。
 しかし、物質的に満たされた(今までの社会と比べたらですが)、現代においては必ずしも『愛』は必須でなくなったのです。
 衣食住の保証がされ、医療が発展し、年齢の順に死んでいくものと、愚かにも信じることができるこの世界では『愛』とは嗜好性の欲となり下がりました。いや、もしかしたら成り上がりかもしれません。

 人を大事にせず、人から大事にされなくてもある程度生きられる時代となったのです。

 現代の人々は『愛』を求めて苦悩している人が大勢います。なぜ、苦悩しているのか。それは手に入れないといけないと考えるから『愛』はつらいのです。
 人は愛を知らねばならぬ。と決めつけた偏向的な価値観があるため、小説の愛は面白いのです。

 現代の超加速度的な時代を生きる上での刺激的な香辛料として『愛』は存在します。

 私たちの子孫が『愛』にとらわれずに生きるためには完璧に満たされた社会が必要になるのではないでしょうか。
 その時に彼らが失う『愛』に代わる何かを私は知りたいと思います。

 次は、どういった切り口で『愛』を騙ろうかしら。

 ああ、こんなん書いてますけど、西向くは恋人はおらんのです。恋も愛も知らぬ輩が恋愛小説を書く等ちゃんちゃらおかしい。焦がれる恋愛を知るまでは恋愛を書かぬと考えていましたが、恋愛というものに縁遠いので恋愛未経験なりに恋愛小説を考えてみているところです。
 書きあがればよいなぁ。

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